「平安を与えてくださる主イエス」   07.11.04
                       ヨハネ福音書4:16〜26

  平安、穏やかで安らかな気持ちで生きること。それは、人が求める
ことであると同時に、人に必要なことでもあるでしょう。国語辞典に、
「安心」には「安神」という漢字があることが説明されていました。
 「安心」は、ただ心が安らかな状態というだけでなく、人は神さまに
よって安らかな気持ちを得ることを表す、キリスト教に通じる信仰的な
言葉のようです。
 「神さまは私たちの魂をご自分に向けて創ってくださった。だから、
人間は神さまの所に来て、神さまに向いていないと、本当の安らぎを
手にすることはできない」とアウグスチヌス(古代キリスト教指導者)が
言ったことを、安神の文字は言い表しているように思います。
 安心を神以外のところに求めるところに、人間の罪があり、悲劇が
あります。サマリアの女性も平安を求めながら生きてきました。しかし、
それを神さまではなく、人に求めてきました。彼女は、確かで揺るがない
平安を得ることはできないでいました。
 親しい人や、自分の持物などによって、何らかの安らぎを得ることが
あります。それらすべてが不要なのではありません。しかし、それらは
どれも永遠の存在ではありませんから、安らぎも一時的なものにしか
なりません。永遠の安らぎは、永遠なる神さまのところでしか与えられ
ないのです。
 主イエスは、安神を必要とする者に礼拝のことを語ります。礼拝は、
永遠なる神さまの所で神さまに向き合う時です。礼拝で、神さまと交わり、
神さまの愛に包み込まれ、めぐみに満ちた力強い御手に抱
(かか)
られるのです。そして、礼拝で、神さまからの語りかけの言葉を聞きます。
 主イエスは、そのような礼拝の民として生きるようにと呼びかけ、
お招きになります。
 礼拝で十字架を見つめるたびに、神さまの大きな愛に包み込まれて
いる事を感じていただきたい。
 聖餐のパンと杯を受けるたびに、罪赦され、神さまとの確かな
交わりの中に置かれていること、しかもそれが永遠の事柄であることを
確信していただきたいのです。